鈴木道彦教授の全訳版の帯にはこうある
見出された時 2 失われた時を求めて(13) 第7篇 (失われた時を求めて)
ゲルマント邸の午後の集い(マチネ)。
私は人々の上に刻印された「時」の啓示を見た
■時を超えて-2
敷石でバランスをくずした時に、特に自分では意識しなかったのに、あるいは意思しなかったのに、ヴェネツィアを思い出したこと(無意思的記憶、レミニッセンス)が、なぜ、語り手に喜びを、それだけで死さえもどうでもよいものにしてしまうような喜びを与えてくれたのか、そのことを考えながら、ゲルマント大公邸に入っていった語り手だった。
ちょうどゲルマント大公邸のサロンでは演奏中だったので、いま弾いている曲が終わるまで図書室でお待ちくださいと言われた語り手のもとに、予てより顔見知りだった、古顔の給仕頭が、プチフールのとりあわせとオレンジエードを持ってきてくれたので、“ごちになります”とばかりに味わい、口を拭うためにナプキンを取った語り手はまたしても、そのナプキンの感触、糊の付け具合から、まったく思いもかけず、あの海のバルベックのグランドホテルのタオルの記憶を呼びおこされたのだった。
それは語り手の目の前を新たな青空の光景が過ぎていったような感覚であった。
■時を超えて-3
いきつもどりつ、何時とはなしに、真剣に考え込む語り手だった。
時間が経過することによって失われてしまうことを免れたいくつかの人生の断片が、(それは一人ひとりによって全く違うことであろう)、ふとした(無意思的)切っ掛け(紅茶に浸したマドレーヌ、不揃いな敷石、糊の固いナプキン)から思い出される時に感じる喜びが、死さえも恐がらせなくなるほどの喜びを語り手に与えてくれるのは、それは、時が経つということによって失われることのない、時間という制約のない、時間という枠を超えた、時間に左右されない永遠性を備えているから、だから死をも恐れさせないような深い喜びをもたらせてくれるのだ、と考える語り手だった。
また、ゲルマント大公の図書室で、幼い頃、ママンが夜のベッドで、語り手に読んできかせてくれた、ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20040809を見つけた語り手はそれでも、ぶつぶつぶつぶつ、深く思考することを止めようとしないのだった。