スワン家のほうへ(11)

ほんのしばらく前にまだ化粧室が広がっていた場所は、いまや小さな中庭に占められ、私が暗闇のなかで再建していた住まいは、覚醒時のすべてが旋回していたときにかいま見たさまざまな住まいと合流してしまった。その住まいが追い立てられたのは、カーテンの…

スワン家のほうへ(10)

リンゴの木々が、均斉のとれた間隔をあけて植えられ、ほかのどんな果樹の葉とも混同しようのない独特の葉でわが身を飾り、白いサテンのような大きな花弁を開いたり、ほんのり赤く頬をそめた内気な蕾の束をぶらさげていたりした。私は、メゼグリーズのほうで…

サイモン・ラトルのブラームス

あれは何年前のことだろうか?たしか、「蛇がピアス」とか、「蛇にもピアス」だったろうか、そういう動物虐待的題名で芥川賞を受賞、文壇に颯爽とデビューした若い女性作家さんがいらしたが、そのことはぼくに、フランソワーズ・サガンが 「悲しみよこんにち…

スワン家のほうへ(9)

春の休暇のはじめは陽が早く沈むのだが、サン=テスプリ通りにたどり着くと、家の窓ガラスはまだ夕陽の残照をとどめ、カルヴァリオの丘の森の奥には深紅の帯が広がり、その帯がさらに先の池にも映し出されていた。真っ赤な夕映えのあとはかなり冷えこむことが…

スワン家のほうへ(8)

「ああ、それじゃ、バルベックにお知り合いがおられるのでしょうか」と父は言った、「ちょうどこの子が、そこに祖母と二ヵ月滞在する予定なんです。もしかすると家内も参るかもしれません。」 ルグランダンはこの質問に不意をつかれたが、父をじっと見ている…

スワン家のほうへ(7)

コンブレーの庭のマロニエの木陰ですごした日曜の晴れた午後よ、私自身の凡庸なできごとを入念にとりのぞき、かわりに清流に洗われた土地での奇妙な冒険と憧れの暮らしを満載してくれた午後よ、お前はいまもなお私にそのときの暮らしを想起させてくれる。そ…

2011年3月11日の地震について

午後3時からの診療に備えて、いつものように準備をしていた時にそれは起こった。いままでに経験したことのない大きな揺れと長く続く激しさに驚愕しながらも、診療開始時間にはすっかりおさまり、定刻の3時少し前からいつもどおり診療開始。一時間ほどで患…

スワン家のほうへ(6)

このように私の部屋の薄暗い冷気は、通りに照りつける太陽と呼応していたが、それは影 が光ゆえに生じるのに似て、太陽と同じように光り輝き、私の想像力に夏の全景をそっくり映し出してくれた。 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)作者…

スワン家のほうへ(5)

サン=チレール教会の鐘塔は、遠くからそれとわかり、コンブレーの町がまだ見えないうちから地平線上に忘れがたい姿を刻みつけていた。復活祭の週に私たちをパリから運んできた汽車の窓から見ていると、鐘塔が空に描かれた雲の畑をつぎつぎと越え、小さな鉄の…

スワン家のほうへ(4)

それは、すぐそばの田園の匂いと同じで、いまだ確かに自然の、空色の匂いをとどめているとはいえ、すでに出不精な人に特有の匂いとなり、一年のありとあらゆる果物が手際よく処理され、透明で美味なゼリーとなり、果樹園から食料戸棚へと移った趣がある。季…

スワン家のほうへ(3)

http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20040812そして家とともに、朝から晩にいたるすべての天候をともなう町があらわれ、昼食時にお使いにやらされた「広場」はもとより、私が買い物に出かけた通りという通り、天気がいいときにたどったさまざまな小道があらわれ…

スワン家のほうへ(2)

夜、家の前の大きなマロニエの下で、私たちが鉄製のテーブルを囲んで座っていると、庭のはずれから聞こえてくる呼び鈴が、溢れんばかりにけたたましく、鉄分をふくんだ、尽きることのない冷んやりする音をひびかせる場合、その降り注ぐ音をうるさがるのは「…

スワン家のほうへ(1)

長いこと私は早めに寝む(やすむ)ことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという思いに、はっと目が覚める。いまだ手にしているつもりの本は下におき…

スワン家のほうへ

楽天に吸収合併される前の「ライコスダイアリー」というところで、2002年の2月からウェッブにログを書いてきた。この過ぎ去った9年間を省みれば、なんといっても約一年以上を費やしてプルーストの小説「失われた時を求めて」の鈴木訳を読みながら、ブ…

岩波書店版「失われた時を求めて」

岩波から出版された吉川一義訳「失われた特を求めて」、第一篇「スワン家のほうへ1」、この一冊にぼくは魅了された。訳文が他の三種類の翻訳に比べて最もすんなりと自分のなかに入ってくるのだ。フランソワーズがこれほど生き生きしているとは…。以前、吉川…

光文社に続いて岩波からも

2010年9月に光文社古典新訳文庫の一環として、高遠弘美さんの訳でマルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」第一篇「スワン家の方へ1」が出版された。これで、現時点でわが国では1)筑摩書房 井上究一郎訳2)集英社 鈴木道彦訳3)光文社 高遠弘…

第13回笹尾光彦展

笹尾光彦展が昨年http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20091112に続いて今年も10月8日から20日まで渋谷の東急Bunkamuraギャラリーで開催されている。笹尾さま御自ら2011年の卓上カレンダーを送ってくださった。来年が世界にとって、日本にとっ…

みならいクノール

みならいクノール (わくわくライブラリー)作者: たざわりいこ出版社/メーカー: 講談社発売日: 2010/10/06メディア: 単行本 クリック: 7回この商品を含むブログ (1件) を見る昨年の五月から六月にかけて受診なさっていらした田澤さんからご著書を送っていただ…

プルースト・夢の方法

最近、また夢をみるようになった。みる夢のほとんどは大学に勤務していたころ、助手、講師時代の夢である。今年の春、桜の咲く頃亡くなった母の夢をみることはほとんど無い。プルーストの夢について深く考察した保苅瑞穂教授の『プルースト・夢の方法』を一…

セルジオ・カマリエール

猛り狂った2010年の猛暑に決定的な別れを告げるために、秋分の日が雨を連れてやって来た。そんな今日という日に ↓このセルジオ・カマリエールの映像など、いかがでしょう。

二つのボエーム

のっぴきならない問題を抱えて他に何も考えられない状態に陥ってしまった。Sよ、君ならばこのことは良く解かってくれるだろう。 しかし、そうそう緊張状態を続けてばかりはいられない。今日はコヴェントガーデン王立歌劇場で2008年に上演されたプッチー…

夏の名残のバラ

暦のうえでは「立秋」である。今夜、世田谷では12時すぎてから雨が本降りになった。YouTubeで「夏の名残の薔薇」と検索すると↓の映像が見つかった。 アイリッシュローズといえば本家ほんもとキース・ジャレットの演奏するマイ・ワイルド・アイリッシュローズ…

アスリートの足

梅雨真っ最中である。高温・多湿のこの時期、足の痒みでおみえになるかたの多くは「みずむし」を心配していらっしゃる。英語で「みずむし」のことを何と言うかご存知だろうか?英語で「みずむし」は「アスリートの足」athlete's foot という。「アスリート」…

「ジェントルマンの極意」

6月23日水曜日の夕刻、S先生と約一年ぶりにお会いし、スペイン料理をご馳走になった。2010年は母の死を予感し、新年早々から精神的に緊張していたのだろう。ベートーヴェンのナイン・シンフォニーを改めて聴き直すという作業を行っていた。母は3月に…

フルトヴェングラーの「英雄」

フルトヴェンフラーは1952年の秋、11月27日の演奏に続いて、その3日後同じウィーン・フィルと、そしてその約一週間後の12月8日にはベルリン・フィルと、ベートーヴェンの「英雄」を指揮し演奏した。その三種類の演奏の記録を聴き比べてみる、などということ…

手に水泡

今年は例年にも増して「手に水泡が出来て、痒くてたまらない」ということで受診される方が多い。拝見すると、みなさん、例の「汗疱」(カンポウ)http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20050307 である。図を描いて説明し、けっして水虫では無いこと、水虫のご心配…

ベートーヴェン交響曲第九番「合唱」

ベートーヴェン最後のシンフォニー第九番「合唱」のわが愛聴盤は前回の日記に記したとおりオットー・クレンペラー/コンセルトへボウ盤である。 http://www.hmv.co.jp/product/detail/1227302 クレンペラーの第九では植村攻さんも詳述されておられるが、↓こ…

ベートーヴェン交響曲第八番

第五、第六、第七と傑作シンフォニーを続けて作曲してきたベートーヴェンも、ここにきてちょっと一服、次の超大作第九に向けて肩の力を抜いたリラックス作品として書いたのがこの第八番である。しかし、逆に言えば肩の力を抜いただけに、聴き手も妙に力まず…

ベートーヴェン交響曲第七番

「のだめカンタービレ」で一躍、広く知られるようになったベートーヴェンの交響曲第七番であるが、 第七の名演・名盤として名高いのは、これまたフルトヴェングラーである。 代表的な演奏の記録としては2種類、1943年第二次世界大戦中の放送録音としてベルリ…

ベートーヴェン交響曲第六番「田園」

ベートーヴェンの九つに及ぶシンフォニーのなかで、「田園」はぼくが最も好きな曲であり、しかもオットー・クレンペラー指揮のものでないといけない。ブルーノ・ワルターhttp://www.hmv.co.jp/product/detail/867125はダメ、フルトヴェングラーhttp://www.hm…