スワン家のほうへ(11)
ほんのしばらく前にまだ化粧室が広がっていた場所は、いまや小さな中庭に占められ、私が暗闇のなかで再建していた住まいは、覚醒時のすべてが旋回していたときにかいま見たさまざまな住まいと合流してしまった。その住まいが追い立てられたのは、カーテンの上部に引かれた青白い線とともに夜明けの光が指をあげて訂正の合図をしたからである。
失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)
- 作者: プルースト,吉川一義
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スワン家のほうへ(10)
リンゴの木々が、均斉のとれた間隔をあけて植えられ、ほかのどんな果樹の葉とも混同しようのない独特の葉でわが身を飾り、白いサテンのような大きな花弁を開いたり、ほんのり赤く頬をそめた内気な蕾の束をぶらさげていたりした。私は、メゼグリーズのほうではじめてリンゴの木が陽のあたる地面につくる丸い影に気づいたし、夕陽が葉むらの下にななめに織りあげる触れることのできない黄金色の光の絹にも気づいた。父はその光をスッテキで寸断しようとしたが、けっして 曲がることはなかった。
失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)
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サイモン・ラトルのブラームス
あれは何年前のことだろうか?
たしか、「蛇がピアス」とか、「蛇にもピアス」だったろうか、そういう動物虐待的題名で芥川賞を受賞、文壇に颯爽とデビューした若い女性作家さんがいらしたが、そのことはぼくに、フランソワーズ・サガンが
「悲しみよこんにちわ」で17歳の若さでベストセラー作家となったことを思い出させた。
サガンの「悲しみよこんにちわ」は映画化され、巷にセシール・カットと呼ばれるヘアスタイルを流行させたのだったが、第三作目の「ブラームスはお好き」は映画化されたときの題名が「さよならをもう一度」という別の表題になってしまったせいか、イングリッド・バーグマンのせいか、はたまたやはりブラームスのせいか、バックグラウンドミュージックとして用いられたブラームスの交響曲第三番第三楽章はセシール・カットに比べて大流行することもなく、いつしか忘れられてしまった。
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ぼくが心底ブラームスに惚れたのはオットー・クレンペラー/バイエルンの第四番を聴いてからである。
バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 他 (Bach: Orchestersuite Nr.3 / Brahms: Symphonie Nr.4)
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以来、クレンペラーを凌ぐ演奏を求めて、数多くのブラームス第四を聴いてきたが、ようやくめぐり会えた感動の名演奏はhttp://d.hatena.ne.jp/mii0625/20100127の日記に記したサバタ/ベルリンフィル盤である。
- アーティスト: Brahms,Strauss,Wagner,De Sabata
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もうこれで打ち止めかとも思えたのだが、偶然、数日前、或る方から奨められて聴いたラトル/ベルリンフィルの演奏、これが実に名演なのだな。
こんなブラームスの演奏が聴けるならきっと21世紀は素晴らしい時代になるに違いない、と思った。
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スワン家のほうへ(9)
春の休暇のはじめは陽が早く沈むのだが、サン=テスプリ通りにたどり着くと、家の窓ガラスはまだ夕陽の残照をとどめ、カルヴァリオの丘の森の奥には深紅の帯が広がり、その帯がさらに先の池にも映し出されていた。真っ赤な夕映えのあとはかなり冷えこむことが多く、私の頭のなかでその赤さは若鶏がローストされる赤い火と結びついていた。散歩がもたらす詩的な楽しみのあとに、美食と熱気と休息の楽しみが期待できるのである。
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スワン家のほうへ(8)
「ああ、それじゃ、バルベックにお知り合いがおられるのでしょうか」と父は言った、「ちょうどこの子が、そこに祖母と二ヵ月滞在する予定なんです。もしかすると家内も参るかもしれません。」
ルグランダンはこの質問に不意をつかれたが、父をじっと見ているときだったので目をそらすことができず、まなざしに刻一刻といっそう力をこめーそして悲しげに微笑みながらーこれは友情から出た率直な気持ちで、正面から見つめるのを恐れるわけではないと言わんばかりに、相手の目を見据えた。
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スワン家のほうへ(7)
コンブレーの庭のマロニエの木陰ですごした日曜の晴れた午後よ、私自身の凡庸なできごとを入念にとりのぞき、かわりに清流に洗われた土地での奇妙な冒険と憧れの暮らしを満載してくれた午後よ、お前はいまもなお私にそのときの暮らしを想起させてくれる。それはお前がー私が本を読みすすめ、昼間の熱気が収まってゆくあいだーお前の静まりかえり、よく響く、香しくて、澄みきった時間の、継起しつつゆっくりと移り変わり、葉の茂みのよぎるクリスタルのような空のなかに、そのときの暮らしを包みこみ、囲いこんでくれたからである。
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2011年3月11日の地震について
午後3時からの診療に備えて、いつものように準備をしていた時にそれは起こった。
いままでに経験したことのない大きな揺れと長く続く激しさに驚愕しながらも、診療開始時間にはすっかりおさまり、定刻の3時少し前からいつもどおり診療開始。一時間ほどで患者さんが途切れて、それからはぽつりぽつりとおみえになる方々を診ながら、不安感に襲われるも、診療終了の午後7時まで、津波による大惨事も、原発事故も全く知らなかった自己の想像力の無さ、不明さに恥じ入るばかりである。
その後は、水も食餌も灯りも無く、暖房も無く、家も失った人々の存在のまえに、平穏な気持ちでいられるはずもなく、読書も、音楽を聴くことも出来ず、ただただ暗澹とした想いに襲われる毎日だった。
少し我が心に余裕が生まれてきたのは、大災害から7日を経過した18日の金曜日頃からである。
21日の春分の日に、漸く「失われた時を求めて」を少し読めるようになったのだった。
これから少しづつ平常心に戻ってゆければ、と思った。