苦節二十年

ブラームスはのちにハンブルグフィルハーモニーコントラバス奏者に就任するまでになった街の音楽家の父からバイオリンやチェロの手ほどきを受け、10歳のときにはピアノの腕を認められてアメリカ行きを薦められるほどだったという。

13歳のときから酒場やダンスホールでピアノを弾くようになったのはあまりにも有名。
そして15歳のときに聴いた、当時の超名バイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの弾くベートーヴェンの「バイオリン協奏曲」にいたく感動し、作曲家への夢を強く抱くようになった。

20歳の秋に訪れたシューマン家(け)で、シューマンにその才能を絶賛されたブラームスはそのままシューマン家に逗留し、シューマンに私淑したが、その僅か五ヵ月後、シューマンライン川に身を投げ、二年後に亡くなってしまう。このとき、ブラームス交響曲第一番の作曲を決意したという。そして交響曲第一番が完成したのはその21年後だった。

ブラームスは23歳から44歳まで、21年の歳月を費やして交響曲第一番を作曲したのだった。

ブラームス:交響曲第1番

ブラームス:交響曲第1番