ブッデンブローク家の人びと(22)

mii06252006-08-30


ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)

ゲルダ・ブッデンブロークが初めてピアノの譜面台の上に「トリスタンとイゾルデ」のピアノのための抜粋曲を開いて、弾いてくれと頼んだとき、ピエール氏は、二十五の拍節を弾くと、椅子から跳び立ち、顔を深い嫌悪の表情で歪め、張り出し窓とピアノのあいだを、せかせかと行ったりきたりした。
「これは弾きません。奥様の仰せにさからったことはございませんが、これは弾きません!これは音楽ではありません、……、そうです。……私は少しは音楽がわかるつもりです!しかし、これは混沌です!これは煽動です、冒涜です、妖気です!香水をふりかけた水蒸気、稲妻がひらめく水蒸気です!これは、芸術からすべての道徳を奪ってしまうものです!」


しかし、結局、ゲルダ・ブッデンブロークが言った通りになった。ゲルダが「トリスタンとイゾルデ」のなかの「愛の死」をヴァイオリンとピアノのために編曲してほしいと頼んだとき、ピエール氏はその仕事を最後には立派にやってのけはしたが、「トリスタンとイゾルデ」には、最後まで十分に溶けこめなかった。「マイスタージンガー」のある部分に、最初に満足の言葉を一、二もらし、……そのときから、この音楽への愛情が、堰を切ったようにこころに目覚めた。

楽劇《トリスタンとイゾルデ》全曲 [DVD]

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