ブッデンブローク家の人びと(10)

ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)

 トーニは、はっとして、モルテンの顔をちらっと見つめ、遠い昔の夢を思い出した人間のように、目をさまよわせた。

 「それ、お聞きになりたいんですの、モルテン?」とトーニは、重々しくいった。
「ではお話しますわ。…いいわ、グリューンリッヒさんというのは、ベンディックス・グリューンリッヒというのは父の商売上の知リ合いで、ハンブルグでいい暮らしをしている商人なんですの。そしてわたしに町で求婚してきましたの。わたし、お断りしましたの。その気になれなかったものですから、生涯を契ってイエスという考えに。なぜって?ああ、わたし、あの男の顔を見るのも嫌だったんですの。」

ふいにモルテンは、声を低めて言った。「あなたはもう少しで町に戻られます、トーニ、そして、ぼくの休みも、あと二週間で終わります。ぼくは、またゲッチンゲンへ戻らなくてはならないのです。しかし、約束してくださいますか、ぼくがここへ帰ってくる日まで、この海岸のこの午後のことをお忘れにならないって?
…ぼくが医者になって、あなたのお父さんにぼくたちのことをお願いできるようになる日まで。そのときまで、グリューンリッヒさんだけでなく、誰にもイエスっておっしゃらないって。」

「ええ、モルテン」と、トーニは、幸福に酔い、上の空でモルテンの目を、口を、自分の手を捉えている二つの手を見つめて言った。

モルテンは、トーニの唇の上にゆっくりと、心をこめて唇を重ねた。それから二人は砂の上でそれぞれちがう側へ目を向け、お互いにすっかり恥じ合っていた。