ブッデンブローク家の人びと(8)

ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家が、メング通りの家に住むよになってから、六年ほど過ぎてから、アントアネット・ブッデンブローク老婦人は、ある年の一月の寒い日に、中二階の寝室で天蓋のある高いベッドに寝たきりになってしまったが、これは老衰のためだけではなかった。

 中二階では、ヨハン・ブッデンブローク老人が、老妻の病床のそばにかけ、アントアネット老婦人の弱々しい手を取り、眉を少し引き上げ、下唇を少し垂らし、無言で前をみつめていた。

 老人は、今から四十六年前に初めて先妻の臨終のベッドの前にかけていたときのことを思い出しているらしかったが、そのときの胸を抉るような絶望を、今の考えこみがちな、メランコリックな悲しみとくらべてみているらしかった。今では自分もすっかり年を取り、年取った婦人の変わりはてた、冷たい、ぞっとさせる無関心な顔を見つめ、一度も夫の自分に深い幸福を感じさせなかったかわりに、一度も大きな苦痛を味わわせず、長い年月、貞淑に聡明に苦労を分け合い、今、同じように静かに去ろうとしている婦人の顔を見つめていた。

 老人はつきつめて考えはしなかった。今までの生活と人間の一生を考え、かすかに頭をふりつづけたが、老人には、人生が遥か遠い不思議なものに感じられ、変にさわがしいざわめきのように感じられ、そのざわめきの真ん中に立っていた自分が、いつかそのざわめきから取り残されてしまい、遠くにどよめいているざわめきに、きょとんとして耳を傾けているのだった。

……老人は、いくどもつぶやくように一人ごとを言った。
「奇妙だ!奇妙だ!」