森有正

抄訳版「失われた時を求めて」を読み終わったとき、僕自身には何か変化が生じるのだろうか、と楽天の日記に書いたことがある。
ライコス時代からずうっと僕の日記を良く読んでいてくれるAさんから、『読み終わったいま、何かmiiさん(これ、僕のことです)は変化しましたか?』という書き込みをいただいた。
読み終えたいま、一番感じているのは、僕が二十歳前後のころに最も尊敬し熟読していた(本人は熟読していたつもり)、哲学者森有正先生の『経験と体験』、なかでも『経験』という言葉の定義をしているのがこの小説、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」だ、と気づいたことである。
何気なく読み始めた小説が二十歳の頃に読み耽っていた哲学者の思想を想起させる、これが僕の第一回目の抄訳版「失われた時を求めて」読了の感想である。
例えば名画を観る(絵画体験)、名演奏を聴く(音楽体験)、死んでも良いと思うほどの恋愛をする(恋愛体験)、そういう失われた時(体験)の様々なことどもが、ある時間、十年とか二十年とか、経た後に何気ない(無意思的)ことで、これらの体験が呼び起こされて、それを考察すると、“体験”が現在の自分の内で「見出された時」(経験)として結晶化してくる。
このような“経験”こそが個人を定義するのであるから、小説「失われた時を求めて」はまず、語り手を“定義”し、そして「失われた時を求めて」を読む我々読み手も“定義”されることになる。
小説「失われた時を求めて」は語り手が自らを見出す小説であると同時に、読み手も自らを見出す小説だと思う。
これからのはてなダイアリーでの全訳「失われた時を求めて」の読書日記が僕の心に共鳴(レゾナンス)を呼び起こし、自らの体験を経験へと結晶化してくれるかどうか、結果を求めず、過程を大切にしてゆきたいと思う。